誰にでもある本当に大切な「働くこと」 Vol.23「不可能の可能性」


キリスト教神学は「不可能の可能性」に

挑む学問であるそうだ。

神は人間とは全く異質なものであり、

人間の言葉で神について語ることは

そもそもが不可能なのだという。

 

だからと言って語ることをあきらめ、

何もしないということはできない。

語りえないことについて語ることに

神学の意義があり、そうであるからこそ

神学が存在するのだろう。目に見えない

何かについての学問が神学なのだろう

と思う。

 

働くことにおいても、こうした

「不可能の可能性」に挑むこと

そのものに意義がある状況がある。

人員も予算も環境も整っておらず、

周囲の理解を得ることも成功する

見込みも薄い、何も得になることが

ない。まさしく「貧乏くじ」だ。

 

そんな状況に置かれたときに、どうせ

何をやっても無駄だと何もしないで立ち

止まるしかできない人間と、何の得もなく、

不可能だということはわかっていながら

「何かのために」果敢に挑戦することが

できる人間との差は大きい。

 

不可能だとわかっていながら挑む人は、

地位も名誉も目には入っていない。

自分のためではなく、なにか使命感のような

ものに突き動かされている。

自分が捨て石となり、自分に続く部下や後輩の

ために何かを残そうという想いがある、という

ことだろう。

 

働くことによって得られる成果は、しばしば

こうした「無私の人」による果敢な挑戦から

得られる。不可能だと思える仕事、失敗する

可能性が高く「貧乏くじ」のような仕事にこそ

意義を見出し、手を挙げる人にこそ、なにか

「目に見えない力」が働き、奇跡が起きる。

 

「語りえないことについては沈黙せねばならない」

と言ったのは哲学者・ウィトゲンシュタインだが、

のちに、自分の考えは誤っていたとして撤回した。

それは「哲学に答えはない」ということではなく、

よりよく生きようとする人間の知恵と、それが

探求すべきこの世の「本当のこと」には果てがなく、

まさに人間とは異質の「神」によってしか

知ることができない領域がある。

そういうことなのだろうと思う。

 

それは不可能だと、神ならぬ人間の「浅知恵」に

よって判断してしまうことそれ自体が、間違い

なのかもしれない。